その人の前を通り過ぎるという暴力
ーその人の前を通り過ぎるという暴力。それは多分金槌で頭を叩くこととそう変わらないことなのだと思います。ー
坂元裕二さんの「初恋と不倫」のなかのフレーズ。とても胸に来た。心から共感出来る。私も、他の人もみんなきっと、この暴力、振るわれたことあるし振ってしまったことあると思う。
受けた暴力は、また暴力となり、連鎖していく。。。様な気がする。もちろん無意識に。
「人はひとりで生きてるんじゃない」と「人に迷惑をかけて生きてはいけない」が共存するのってすごく不可解だなぁといつも思ってる。
人が人と生きている以上、人が人と関わる以上、絶対、誰かの "せい" とか "おかげ" とかで関係は結ばれていると思ってる。。。
誰がと関われば絶対に迷惑をかけてしまうし、迷惑だなと思う事もあるし。
でも、私はそれでいいと思ってる。。。そのくらい思い入れの出来る人と付き合っていきたいし…。
自分で決めた事、自分の進む道、もちろん自分で責任持つのは大事ではあるけど、こうやってなにかの答えを出すには生きてきた時間と経験がバックにあるわけで…そこにはもちろん人との関わりもあるわけで…
だから誰かのせいとか、おかげにしないで生きていく事ってすごく難しいなと思うし、私には出来ないなーと思う。。。弱いけど。
あざとなり残る記憶…とはまさに。
誰かが生きてきた時間を振り返った時、そこに一秒でも私が出て来たらすごいなぁ、嬉しいなぁ、、
私は自分のあざでさえも愛おしいし嬉しいな。誰かとちゃんと関われた証だから。
(あと、
だんだん心動かされる域値が上がっていくの、とっても淋しいから治したいな。どうやったら治るのかな。これが歳をとるという事なのか……?もっと怒ったりムカついたり泣いたりもしたい。。。)
4月の雨
いろいろと書きたい事が募っていたのですが……
今年は春になるのが遅めだったのに
花の写真を撮りに行きたいな と思っているうちに もう緑の季節が来そうな感じです。
紫陽花の写真を撮りに行きたいな と思っていたらきっと、もう紅葉が始まってしまうので思い立ったが吉日 ちゃんと行動しなければ、です。。
先日、もう出会って15年ほどになる先生方の演奏会を聴きに行ってまいりました。
リヒャルトシュトラウスのヴァイオリンソナタを聴いている時ふと、
この曲に題を付けるとするなら 18番目の月 だな〜〜 と思っていました。
まあ、せっかくの題のない曲に私ごときが題を付けてしまうなんてなんておこがましい!と承知の上…なので心にしまっておきますが…(ここには書いてしまっていますが笑)
もっとも、曲自体が、美しかった時間を自然と思い起こさせるのか、
それともこの曲を初めて聴いて好きになった高校時代の思い出を思い起こさせる…という個人的な感情に基づくものなのか……
とは言っても、高校時代はそれなりに、人前でご飯を食べるのが苦手になってお弁当もほとんど食べられなかったり、その時はその時で苦しい事もあったけれど…
その時が楽しかった という事実よりも、絶対戻らない、手に入らない という事が尊いのかなぁ……?
この頃、過ぎた時間に戻る事ってできないんだなぁと実感する事が多いです。笑
当たり前すぎるのですが……
そんな事を思いながら聴いていたからなのか……
あ、でも、月だったら、また戻ってくるから、過ぎてしまったとは言えないか……など笑
というかむしろ、同じ満月は戻ってこないけれど、また次の満月、それまでまた、惜しくなるような満月のために頑張ろう、という意気込みと希望で3楽章が締めくくられる…そんな気もして聴いていました。笑
いつもに比べて感傷的になった演奏会、心に温かい雨が降り注いで来た様な、そんな気持ちで帰宅しました。
この事を、Facebookに久しぶりに投稿しようか……とも考えていたのですがチキンな私、自分勝手な曲の解釈を載せるの(しかも先生方もご覧になるので…)が恥ずかしかったりして、、ブログに書きました。笑
私の書く文末、笑 が多過ぎませんか。
この、笑 がないとどうにも恥ずかしいです……
最近、人(全然知らない他人)が何を考えているか、ちょっと興味のある時期(?)で、ラジオを聴いたり、他人のオススメの本を読んでみたりするのが楽しいです。
やっぱり音楽(に限らないけれど)、あの頃を思い出せる、というのが嬉しくも痛くもありますよね………
ナラタージュで、泉が、高校時代につけていた香水を、思い出が強すぎてもうつけられない…というところものすごく同感して好きなところです…
人の書く文章って、性格が出たり、
あの子とあの人が似てる、みたいなの面白い。笑
私は…優柔不断さ、歯切れの悪さがよく出ているなぁと思います…笑
ではまた☘
伝える、伝わる
伝えるのってとても難しいことだなあとよく思います。
そして、伝えよう伝えようと思っていることよりも、
思っていることが自然と伝わる、という形でのほうが
より強く伝わる様な気がしています。
私の大好きな有村架純ちゃんが前に、
「思っていることは目で伝わると信じてお芝居している」
と言っていたのを思い出しました。
http://ameblo.jp/kasumiarimura/entry-12142770521.html
大きな身振り手振り表情などで表現されるよりも、私の場合は、目の色や沈黙で自然と伝わってくる演技のほうが、スッと想いが入ってくるなあと感じます。
と同時にそれが本当に難しいことなのだと思うのですが。笑
芸術にも同じことが言えると思います。
何かを「伝えよう」という意識の強いものにはなかなか心を動かされない気がします。
その人の感じたままのものに、人は自分に内在する感情を共鳴させることで、結果として感動するだなあと思います。
(私が2○時間テレビを嫌いな理由もここにある気がします。笑)
音楽ももちろん同じで、「元気出してがんばろーよ!」とか言われても、元気出して頑張ろう!とはなかなか思えません。笑(ここでは歌詞の話をしています、)
人にウケるために、と考えられて造られたものよりも、発信者が感じた事、個人的な想いをつらつらと語ったようなもののほうが案外胸を打たれる場合が多い、と思っているわけです。
この事を考えていたら、ベートーヴェンが頭に浮かびました。音楽に個人的な想いを込めることが出来るようになったのはベートーヴェンのお陰なのですよね、笑
人の心を震わせるだけの強い感情を持つ、
そんなに簡単にできることではないけれど、
大勢の人に何かを伝えたいときに頑張って伝えようとすることは逆効果になることもあるのかな、と思いました。
勿論、人の心が自然と震えてしまうほどの強くて強い感情を持つ事が第一条件なのだなとも。
そしてそして、伝わります様に、と願う心も大切であると。たしかにこれがゼロでは伝わらないだろう。
といっても、全力で伝えなければ伝わらなかったり、それでも伝わらないこともたくさんあるので難しい。
今日はひっさしぶりに懐かしい人にメールを送りました。
元気にしているのかな。お返事来たらいいな。笑
日記
友人のプライベートが見え過ぎることに疲れて、また新たなツールを始めてみようかなと思った次第です。
日記は中2のちょうどこのくらいの季節に始めたのですが、今でも日記を書く事が心の支えになっています。なので紙の日記はやめたくない、個人的なこだわりです笑
それで充分なはずなのに、やはりなぜか誰かに発信したくなってしまうのは、どうしてなのだろう。笑
…まあ、あまり深い事は考えずに
思った事、もしも誰かが聞いてくれていたら嬉しいなぁと思う事、など、自己満足で記していきたいなぁと思います。
と言いながらあまり見ないで、とも思うし、恥ずかしいんですけれど。笑